「天寿国繍帳」と「戌寅暦」
 


     最新の暦の辞典である「暦の大辞典」(朝倉書店,2014)をみて「戌寅暦の伝来(大谷光男氏執筆)」(286〜287頁)という項目がある。

     そのなかで、『戌寅暦の伝来は、現存する史料による限り、「日本書紀」推古天皇29年(621)に新羅がわが国に朝貢した際にもたらされたと考える』としている。 戌寅暦を伝える史料としては「天寿国繍帳」とし、『「(621年)12月21日癸酉」の暦日については、穂井田忠友・宮田俊彦・家永三郎の3氏は12月21日甲戌の誤りとしていたが、飯田瑞穂(註1)によって、戌寅暦をもって12月21日癸酉説が確定した。
    (註1)飯田瑞穂(1951):天寿国繍帳をめぐって「古美術」11 』としている。

     では確定的記述があるかと思って、飯田瑞穂氏の「天寿国繍帳をめぐって」をみてみると、

    『また太子の母后の忌日12月21日癸酉が、長暦で甲戌になっている点については、推古朝の暦がどのような暦法によっていたのか確実なところは分からないのが実情で、一応元嘉暦が行われていたとみる説が有力であるので、長暦はそれによって推算したものにすぎない。干支のずれは、銘文の誤りと断定するよりも、むしろ長暦の推算の方を検討し直すべきであろう。現に当時の大陸の現行暦たる「戌寅暦」によれば、12月21日は癸酉となって、繍帳銘と一致するのである。』 とあり、推古朝での元嘉暦の使用が確定したものではないので、「戌寅暦」の可能性もあると述べているにすぎないことが分かる。

     また「(621年)12月21日癸酉」は儀鳳暦で暦算されたとする金沢英之氏(「天寿国繍帳の成立年代について」国語と国文学(2001))が指摘しているように、以下の飯田瑞穂氏「天寿国繍帳と飛鳥仏教」(「聖徳太子の研究に収録」初出1989)では「戌寅暦」の可能性が乏しいことを追記している。

     『暦の問題については、当時、わが国で用いられた暦が元嘉暦であるとみるのが通説で、それによって推算すると推古天皇29年辛巳(621)12月朔日は甲寅で、21日は甲戌となり銘文でいう「12月21癸酉」と合わないことを問題にするわけですが、推古朝にどのような暦法が行われたかは、実は必ずしも確認されているわけではなく、一般に、百済が宋の元嘉暦を用いたと伝えられるので(「隋書」百済伝)、百済を通じて暦法を受用したわが国でも元嘉暦が用いられたと考えられ、書紀の記事の月朔干支も元嘉暦に合致することが、この推定を裏づける事実として指摘されている。  「正朔を奉ずる」の語があるように、暦や年号は、いわゆる冊封体制と深い関わりがあり、推古朝の人々がその点に無頓着であったとは思えないが、実用的・技術的な分野でもあるだけに、隋との接触によって、いち早く新しい暦法が入っていた可能性も否定しきれない。隋では、開皇暦(584)・大業暦(608)が用いられ、また頒行には至らなかったが、すぐれた皇極暦も存した。暦法の差によって月朔干支の1日のずれは、さほど稀でなく生じ、現に推古天皇29年は、すでに隋が滅んで唐代に入り、高祖の武徳四年に当たるが、当時の唐の現行暦たる戌寅暦(日本に入っていた可能性は乏しいが)では、12月朔日は癸丑で、その21日の干支は癸酉となって繍帳銘と一致するのである。干支のずれは銘文の誤りと断定するよりは、むしろ当時、元嘉暦が行われていたとする推定の方を検討し直すべきではあるまいか。また、近年出土の太安麻呂の墓誌の「養老7年12月15日乙巳」が、長暦の推算と1日ずれることなども思い合わされよう。』 「天寿国繍帳と飛鳥仏教」(「聖徳太子の研究に収録」初出1989)

     記述から1951年の論文以降中国の暦法を調べられたことが推定できるが、40年間に新しく判明したのは、推古朝での戌寅暦の使用の可能性が低いことだけのようである。 飯田瑞穂氏の論拠は「推古朝にどのような暦法が行われたかは、実は必ずしも確認されているわけではなく」というところにあるので、2003年に持統天皇3年(689年)の元嘉暦による具注暦の木簡が発見されたことにより、「推古朝による元嘉暦の使用が確定」したため、その論拠を失ったことになる。

     従って「天寿国繍帳」が推古朝で作成されたものであれば「干支のずれは銘文の誤り」ということになる。よって「天寿国繍帳」にもとづいての「戌寅暦の伝来」には確証がないことになる。もともと1日だけの暦日から暦法を確定することは出来ないのは明白。


      2016年3月9日UP