古代日食計算における陽暦法の発見



     中国や日本の様な中緯度以北の地域で日食が実視できる確率は、日食食甚時の月の黄緯が太陽の黄緯より北にある場合の方が南にある場合より圧倒的に大きい。その性質を用いた日食予報方法を簡便の為ここでは陽暦法と呼ぶ。この陽暦法は中国の隋の時代に発見され利用された。陽暦法は日本にも儀鳳暦と伴に伝播され日本の日食予報にも使われた。

     

    1.日食計算による日食実視確率の違いの検証

    1.1 現代の日食計算法による検証

     現代の日食計算ではまず日食毎にベッセル要素をもとめそれにより観測地点における日食の状況を計算するのが通常である。筆者の作成した日食計算プログラムEmapwinでは太陽及び月の軌道をJPLの天体暦DE406で求めベッセル要素を計算している。このベッセル要素の中にγとよばれるパラメータ1)があり、それはベッセル基準面に投影された太陽の中心と月の中心との最小距離の値である。このパラメータの符号がプラスの時には、月の中心が太陽の中心より北を通ったことになり、逆の場合は南である。

    ここで西暦1001年から1200年までの200年間の日食を京都で観測した時の例を以下に示す。

     

    表−1 現代日食計算法での京都での実視可能回数(西暦1001年から1200)

    月の位置

    全日食回数

    京都での実視可能回数

    太陽より北(γが+の場合)

    249

    72

    太陽より南(γが-の場合)

    242

    8

    合計

    491

    80

      注-1:実視可能の計算はEmapwinによる。

     

    従って、日食時に月が太陽の北にある場合は南にある場合より9倍も京都で見える確率(72/80=90%)が高いことになる。また南になる場合でも京都で見られる日食は次の8回であり、@1047/3/29,A1054/5/10,B1058/8/22,C1108/6/11,D1112/9/22,E1141/3/10,F1148/4/20,G1177/9/23、その日付はほとんどが春分前後から秋分前後までの夏の期間となっている。これは夏には太陽の赤緯が高い分北半球の中緯度で日食を実視する確率が上がる為である。

     

    1.2       宣明暦の日食計算法による検証

     宣明暦は中国では822892年まで使用された。日本へは渤海使から859年に伝えられ、それまでの大衍暦に代わって862年から施行された。日食は月齢0日に太陽と月が黄道と白道の交点近くにある場合に起きる現象であるが、宣明暦の日食計算法2)では月が昇交点から降交点までにある期間(月の黄緯が黄道より北にある場合)を陰暦と呼び、逆の場合を陽暦と呼んだ。これは現代の日食のγがプラス(=陰暦)の場合とマイナス(=陽暦)の場合にそれぞれほぼ対応する。宣明暦では陰陽暦の他に帯食(日食中の日の出、日の入)、夜食(夜の時間帯に日食が起きる)、不食(食分が負で日食とならない)の区別も計算結果として算出される。しかし宣明暦のような古代/中世の日食計算方法ではたとえ日食が予測されても特定の場所で起きるかどうかは確定できなかった。ここでも先と同じく西暦1001年から1200年までの200年間の日食を京都で観測した時の例を以下に示す。

     

    表−2 宣明暦法での京都での実視可能回数(西暦1001年から1200)

    月の位置

    日食の種類

    日食数

    実視可能(-1)

    的中率

    北の場合(陰暦)

    日中食/帯食

    91

    65

    71.4%

    夜食/不食

    112

    4

    3.6%

    南の場合(陽暦)

    日中食/帯食

    101

    10

    9.9%

    夜食/不食

    112

    0

    0%

    合計

     

    416

    79

    19.0%

      注-1:実視可能の計算はEmapwinによる。

     -2:陰暦陽暦の区別は宣明暦法の月行入陰陽暦の計算法による。

     

     表−2の結果にある通り、宣明暦法でも現代の日食計算と同等の確率(69/79=87%)で月が太陽の北にある場合(陰暦)は南にある場合(陽暦)より京都で見える確率が高いことになる。またこの表より陽暦と陰暦の日中食及び帯食を予報して実視できる確率は約4割=(65+10)/(91+101)であるが、陰暦と陽暦の日食の発生確率を利用して陰暦の日中食及び帯食のみを予報すれば平均約7割=65/91の予想的中率を得られることがわかる。これが陽暦法である。

     

    2.太陽と月との相対位置による日食実視確率の違いの発見

    日食が観測できる確率は、日食食甚時の月の黄緯が太陽のそれより北にある場合の方が南にある場合より圧倒的に大きいことを暦法に最初に採用したのは、隋書によると大業暦(隋・大業4年、AD608に施行。) を編纂した張冑玄という。隋書 張冑玄傳にある彼の暦と古来の暦との違いの3番目に「・・・。若月行内道、則在黄道之北、食多有験。月行外道、在黄道之南也、雖遇正交、無由掩映、食多不験。遂因前法、別立定限、隋交遠近、遂気求差、損益食分、事皆名著。」3) とあり、内道(陰暦)、外道(陽暦)により計算の方法を変えたとある。このことは藪内清「隋唐暦法史の研究」4)に「その三は月が黄道の南或は北に位するに従ひ月の黄白道の交点を去る度数が等しくとも一は食し一は食せざるの法を立てたことである」と紹介している。また隋書・志の大業暦にも「・・・其余如望差巳下、外限巳上、望則月食、在内者、朔則日[]。」5)とありいままでの暦法にない「在内者」という条件がついている。また日食判定方法も外道と内道で二通り示している。

    参考までに歴代律暦志に載る日食限の記述の変遷を示す。

     

    表−3 天文律暦志にのる日食限の記述の変遷

    施行  (西暦)

    記述

    記載個所

    宋書・景初暦

    237

    入交限数以上者、朔則交會、望則月蝕。

    志彙編六 p.16966)

    宋書・元嘉暦

    445

    交限数以上、朔則交會、望則月食。

    志彙編六 p.1730

    宋書・大明暦

    510

    (交限数)以上、朔則交會、望則月食。

    志彙編六 p.1752

    魏書・正光暦

    523

    (交限数)以上、朔則交會、望則月食。

    志彙編六 p.1791

    魏書・興和暦

    540

    其交在望前者、其月朔則交會、望則月食。其交在望後者・・・。

    志彙編六 p.1829

    隋書・開皇暦

    584

    詳細記載無し。

    志彙編六 p.1893

    隋書・張冑玄暦

    (大業暦)

    597

    外限巳上、望則月食、在内者、朔則日[](-1)

    志彙編六 p.1925

    隋書・皇極暦

    未施行(604

    交限以上者月食、月在[]日食。

    志彙編六 p.1957

    唐書・戊寅元暦

    619

    交限巳上、望則月食、其朔在内道者、朔則日蝕。

    志彙編七 p.1986

    唐書・麟徳暦(儀鳳暦)

    665

    為入蝕限、望則月食、朔入限、月在裏者、日蝕。

    志彙編七 p.2024

    唐書・大衍暦

    728

    望入蝕限、則月食、朔入蝕限、月在陰暦則日蝕。

    志彙編七 p.2024

    -1:大業暦の記載内容。

     

    いつ頃から陽暦の実視確率が少ないことを発見したかを探るために隋書、唐書等の史書に載る日食記事を検証し夜食/不食の内訳を表−4にまとめた。これによると隋・開皇十三年(5938)を最後にそれまで連続的に予報されていた陽暦の日食予報(不食)がほとんど無くなっていることが分かる。これは隋書・志の開皇十四年7月(594)に記録のある25個の過去の日食に対する験算7)が関係しているのではないかと思われる。なぜなら、この験算の結果当時施行されていた開皇暦が張冑玄の暦に較べ劣ることが判明し3年後の開皇十七年(597)より張冑玄の暦が施行されたので、日食計算についてはこの時より検証が始められたためと思われるからである。

    表−5に漢書/後漢書に載る日食記録の内訳をまとめたがこれらは非食を除くとほぼ実視の記録である。この記録を検証した場合陰暦の日食の割合が高いことは容易に判明したと思われる。

     

     

    表−4 中国の史書に残る日食記録の内訳(日付不明/不審記事及び非食は含まず。)

     

     

    実視可能

     

    夜食/不食

    (注-2

     

    年代(西暦)

    全日食数

    (-1)

    陰暦

    陽暦

    合計

    陽暦率

    550

    1

    0

    0

    1

    1

    100%

    560

    11

    3

    2

    6

    8

    75%

    570

    9

    4

    2

    3

    5

    60%

    580

    6

    1

    0

    5

    5

    100%

    590

    3

    0

    1

    2 (-3)

    3

    67%

    600

    1

    1

    0

    0

    0

    0%

    610

    2

    1

    1

    0

    1

    0%

    620

    7

    4

    3

    0

    3

    0%

    630

    8

    3

    2

    3

    5

    60%

    640

    4

    3

    1

    0

    1

    0%

    650

    0

    0

    0

    0

    0

    0%

    660

    5

    2

    3

    0

    3

    0%

    670

    6

    3

    3

    0

    3

    0%

    680

    5

    5

    0

    0

    0

    0%

    690

    5

    4

    1

    0

    1

    0%

    -1:実視の計算はEmapwinによる。

    -2:陰暦陽暦の区別は宣明暦法の月行入陰陽暦の計算法による。

      -3:最後の陽暦の日食は5938

      -4:「中国古代の天文記録の検証」8)をもとに分類

      

    表−5 中国の古史書に残る日食記録の内訳(日付不明/不審記事は含まず。)

     

     

    実視

    不蝕

     

     

    全数

    陰暦

    陽暦

    合計

    陰暦

    陽暦

    合計

    非食

    漢書

    61

    40

    2

    42

    1

    0

    1

    18

    後漢書

    76

    66

    6

    72

    2

    0

    2

    2

    -1:実視の計算はEmapwinによる。

    -2:陰暦陽暦の区別は宣明暦法の月行入陰陽暦の計算法による。

      -3:「中国古代の天文記録の検証」をもとに分類

     

     なおここでは陰暦陽暦は宣明暦法で計算しているが、どのような日食計算方法行ったとしても陰暦及び陽暦の日食の発生確率はほぼ同じであり、また表−2で示したように北緯35度程度の地域で実視できる陰暦と陽暦の日食の比率は91である。従って日食の計算結果をそのまま用いたのでは不食の割合は圧倒的に陽暦の方が高くなる。例えば表−2の場合の不食での陽暦の割合は91/(26+91)=77%となる。従い宣明暦より以前の日食計算方法であってもよほど制度の悪い計算方法でない限り同様の結果となる。よって宣明暦で計算して陽暦の割合が低い場合は陽暦の日食につき操作が行われたと言える。

     

    3.陽暦法の日本への伝播

     

     張冑玄の編纂した最初の暦は開皇十七年(597)より施行されたが、唐代の暦の範とされた皇極暦(大業四年(AD608)施行されず)を編纂した劉焯の死後張冑玄は前の暦を改変し同じ年に大業暦として施行した。大業暦には皇極暦に基づく改変もあったようである。その後暦は唐において戊寅元暦(施行:619)、麟徳暦(施行:665年)、大衍暦(施行:729年)と改良されて行った。このなかでまず儀鳳暦が日本の儀鳳年間に伝わり、持統天皇4年(690年)からは儀鳳暦と呼ばれ元嘉暦と伴に用いられた。大衍暦は吉備真備が天平7年(737年)に唐から持ち帰り天平宝字8年(764年)から貞観3年(861年)まで用いられた。そして864年までの五紀暦併用時代を経て865年からは宣明暦の時代に入る。

     ここでも中国と同じ様に陽暦法が使われていたかを確認するために西暦1000年までの記録が残る日食のうち不食の場合を陰暦と陽暦に分類した結果が表−6である。この結果から儀鳳暦が施行された当初から陽暦の割合は低く陽暦法が使われていたことが確認できる。又、9世紀中頃(大衍暦終盤)から10世紀中頃(宣明暦施行後)は全ての種類の日食記録が残っている。これは既に7世紀後半から160年の陽暦法を用いた日食予報の経験がある上でのことであり、日食計算方法の問題というより、計算結果を扱う制度が変わったものと思われる。9)

     表−5の結果を時代ごとにまとめると以下である。

     689年迄:実視の記録のみ。

      690年代:日食の推算を初めたが陽暦法の使用はまだ確定していない。

      700-770年代:陽暦の割合が下がり陽暦法で日食の推算をおこなったことが分かる。

     780-830年代:夜食/不食の数が減りほぼ実視の記録。

     840-930年代:陽暦の割合が上がり陰陽関係なく予報しその結果を記録したことが分かる。

      940-990年代:陽暦法の日食推算に戻る。ただし970年以降は実視のみ。

     

     また表−7は1000年から1600年までの日食を前と同じく分類したものである。これによるとこの間もほぼ全ての期間に渡って陽暦法がつかわれたことが分かる。1200年前後に陽暦の割合が増えているのは宿曜道等との日食計算に関する争いが原因である。

     

    表−6 日本の史料に残る日食記録の内訳(西暦600年〜1000/10年毎)

     

     

    実視可能

     

    夜食/不食

    (注-2

     

    年代(西暦)

    全日食数

    (-1)

    陰暦

    陽暦

    合計

    陽暦率

    -689

    4

    4

    0

    0

    0

    0%

    690

    8

    1

    3

    4

    7

    57%

    700

    10

    3

    5

    2

    7

    29%

    710

    11

    2

    7

    2

    9

    22%

    720

    7

    3

    4

    0

    4

    0%

    730

    10

    3

    7

    0

    7

    0%

    740

    5

    2

    3

    0

    3

    0%

    750

    4

    0

    4

    0

    4

    0%

    760

    8

    4

    3

    1

    4

    25%

    770

    9

    2

    7

    0

    7

    0%

    780

    2

    2

    0

    0

    0

    0%

    790

    6

    5

    1

    0

    1

    0%

    800

    4

    4

    0

    0

    0

    0%

    810

    7

    4

    3

    0

    3

    0%

    820

    3

    3

    0

    0

    0

    0%

    830

    5

    3

    2

    0

    2

    0%

    840

    8

    4

    2

    2

    4

    50%

    850

    13

    3

    6

    4

    10

    40%

    860

    14

    5

    3

    6

    9

    67%

    870

    16

    4

    3

    9

    12

    75%

    880

    16

    1

    7

    8

    15

    53%

    890

    15

    4

    3

    8

    11

    73%

    900

    13

    3

    4

    6

    10

    60%

    910

    16

    4

    5

    7

    12

    58%

    920

    7

    5

    0

    2

    2

    100%

    930

    8

    2

    2

    4

    6

    67%

    940

    9

    4

    4

    1

    5

    20%

    950

    3

    2

    1

    0

    1

    0%

    960

    5

    3

    2

    0

    2

    0%

    970

    5

    4

    1

    0

    1

    0%

    980

    1

    1

    0

    0

    0

    0%

    990

    5

    5

    0

    0

    0

    0%

    -1:実視の計算はEmapwinによる。

    -2:陰暦陽暦の区別は宣明暦法の月行入陰陽暦の計算法による。

    -3:「日本天文史料(上)」10) をもとに分類

    表−7 日本の史料に残る日食記録の内訳(西暦1000年〜1599/50年毎)

     

     

    実視可能

     

    夜食/不食

    (注-2

     

    年代(西暦)

    全日食数

    (-1)

    陰暦

    陽暦

    合計

    陽暦率

    1000

    20

    14

    6

    0

    6

    0%

    1050

    18

    13

    4

    1

    5

    20%

    1100

    27

    18

    9

    0

    9

    0%

    1150

    21

    15

    3

    3

    6

    50%

    1200

    26

    17

    5

    4

    9

    44%

    1250

    24

    14

    7

    3

    10

    30%

    1300

    19

    11

    7

    1

    8

    13%

    1350

    15

    11

    4

    0

    4

    0%

    1400

    26

    17

    9

    0

    9

    0%

    1450

    23

    14

    8

    1

    9

    11%

    1500

    21

    17

    4

    0

    4

    0%

    1550

    16

    10

    6

    0

    6

    0%

    -1:実視の計算はEmapwinによる。

    -2:陰暦陽暦の区別は宣明暦法の月行入陰陽暦の計算法による。

       -3:「日本天文史料(上)」をもとに分類

     

    4.日本ではいつ陽暦法は忘れられたか

     江戸時代に入り安藤有益が1663年に「長慶宣明暦算法」を著し宣明暦法が一般に手に入るようになったころには陽暦法は忘れられていたようである。1670年に完成した林羅山などにより完成された「続本朝通鑑」には単独記事として1339年から1600年にかけて陽暦の日食が数多く記載されている。「日本天文史料」の前書き18)によると、安藤有益の「本朝統暦」や千葉歳胤の「皇和通暦蝕考」は後代の計算によるものなので採録しないとあるが、「続本朝通鑑」は1301年以降に他の記録が無く日本で日食があったと思えるものは「続本朝通鑑」を採録することにしたとある。しかし、「続本朝通鑑」に単独で載る日食は表−8にまとめたように陽暦の日食がほとんどであり表−7でまとめた他の日食記録の傾向とは全く異なっている。従って「続本朝通鑑」に載る日食記録は「長慶宣明暦算法」若しくは他の「宣明暦法」をもとにした後代の日食推算によるものと考えられる。従い「続本朝通鑑」の記事も「日本天文史料」から除くべきものである。「続本朝通鑑」の記録を引用している「愚史愚抄」の記録にも同じことが言える。

    また近年出版された「日本暦日総覧〈具注暦篇 〉」11)に載る日食リストにも陽暦陰暦の区別がなく宣明暦法で推算される不食(食分が負)以外の全ての日食を記載しているので注意が必要である。

     

    表−8 「続本朝通鑑」12)に単独で載る日食記録の内訳

     

     

    実視可能

     

    夜食/不食

    (注-2

     

    年代(西暦)

    全日食数

    (-1)

    陰暦

    陽暦

    合計

    陽暦率

    1339-1600

    39

    20

    1

    18

    19

    95%

    -1:実視の計算はEmapwinによる。

    -2:陰暦陽暦の区別は宣明暦法の月行入陰陽暦の計算法による。

       -3:「日本天文史料(上)」をもとに分類

     

    5.まとめ

     隋の張冑玄によって初めて施行された暦法へ採用された陽暦法は儀鳳暦として日本へ伝わり宣明暦が使われた江戸初期まで用いられた。陽暦法の採用により日食予報の実視確率は約2倍改善し、例えば宣明暦では約4割の実視確率が陽暦法だと約7割となる。

     

    (2008427WEB掲載。)

     



    1) Jean Meeus Elements of Solar eclipses 1951-2200p8,1989, Willman Bell Inc.

    2) 安藤有益著「再考長慶宣明暦算法」(国会図書館蔵)

    3) 隋書・六 傳 巻七十八p1781,1973,中華書局出版

    4) 藪内清「隋唐暦法史の研究」p18,1943,三省堂

    5) 隋書・二 志 巻十二p.453,1973,中華書局出版

    6) 中華書局編輯部編「歴代天文律暦等志彙編」(1975)

    7) 隋書・二 志 巻十二p.429, 1973, 中華書局出版

    8) 斉藤国治・小沢賢二著「中国古代の天文記録の検証」,1992,雄山閣出版

    9) 細井浩志著「古代天文異変と史書」p112-117,2007,吉川弘文館

    10) 神田茂編「日本天文史料(上)」,復刻版,1978,原書房

    11) 古川麒一郎,伊東和彦,岡田芳朗,大谷光男著「日本暦日総覧〈具注暦篇 〉」,本の友社

    12) 林羅山本朝通鑑・続編」,1919,国書刊行会