「野中寺の弥勒菩薩像」と「儀鳳暦」
 


     最新の暦の辞典である「暦の大辞典」(朝倉書店,2014)をみると「儀鳳暦の習得(大谷光男氏執筆)」(287〜289頁)という項目がある。

     そのなかに、『ところで、わが国に麟徳暦がもたらされたのは天智天皇5年(666)で、唐での施行の翌年のことである。証拠は野中寺(大阪府羽曳野市野々上)から発見された弥勒菩薩像の造像記の冒頭に、「丙寅年四月大旧八日癸卯開記」とある。(以下暦日の説明、略)』p.287
     また、略した部分では「丙寅年四月大○八日癸卯開」は当時(666年)の暦法である元嘉暦に合致し、麟徳暦では合わないことが説明されている。したがって、当時の暦法(元嘉暦)通りの暦日(注1)が刻印されているだけの話で、この刻印が麟徳暦がもたらされたのが天智天皇5年(666)である証拠であることはなにも説明されていない。

     この部分を何回読んでも意味不明なので、「野中寺」や「儀鳳暦」で検索すると「59-5.野中寺の弥勒菩薩像に刻まれた天皇号 [59.聖徳太子は実在し伝承されていた]」をみつけた。
       『野中寺弥勒像の銘文「丙寅年四月大」と「八日癸卯開」は、元嘉歴で天智5年(666年)4月8日のみが該当する。しかし「丙寅年四月大」と「八日癸卯開」の間にある緑色マークの○の字(写真Z143)の読みには諸説がある。通説では「旧」と読んで、新しい暦(儀鳳歴)が使われる時代に、以前使用されていた「旧」の暦(元嘉暦)で記したことを示したものであると解釈している。そして儀鳳歴と元嘉暦が併用された持統4年(690年)、もしくは儀鳳歴のみが用いられるようになった文武元年(697年)以降に、野中寺弥勒像の銘文が刻字されたと解釈している。』という通説があることが判明。しかしこの通説は仏像にある「天皇」表記の時代を天武朝以降に下げるために、仏像自体が666年より新しい作品とする解釈する説なので、「麟徳暦がもたらされたのが天智天皇5年(666)である。」ことを説明できない。

     また「旧暦」という発想は「太陽暦」になった明治以降「太陰太陽暦」と2つの全く違う暦法が平行して使われている時代に両者を識別する方法であるので、「旧」と読みそれを昔の時代の暦と解釈すること自体が間違いである。江戸時代以前は「暦日は一つしかない」ので、識別する必要がそもそもない。わざわざ旧暦と表示する理由が無いのでそのような暦日表示の例も無い。旧暦と解釈するのは明らかに「現代人の発想」である。(注2) さらに「儀鳳暦」では「丙寅年四月小八日甲辰閉」になるので、もし現代の「旧暦」という意味で使うのであれば少なくとも、違う部分の最初に「旧」を置き「丙寅年四月大八日癸卯開」となるはずで、このことからもこの文字は「旧」ではない。このようなめでたい銘文に書く必要もない、なにかを匂わす文字を入れる理由もない。「旧」と見える文字の右の「日」と八日の「日」は違い2画目がハネているので、四月の「月」に近い。上記HPにあるように「朔」の略字の可能性が高いと思う。

     今井湊『天官書』(飛鳥時代の暦法)p.21-23では『丙寅年は唐の乾封元年であるが、その前年の麟徳二年五月に改暦された麟徳暦による乾封元年暦が早くも知られていたという事で、それは当時の朝鮮事情からすれば可能なことである。記銘の作者は新旧両暦を対照することができる立場にあって灌仏会に仏像の開眼をするのに閉の日ではこまる。元嘉暦の開の日をとったということで、四月大旧八日癸卯開としたということが云えると思う』としている。大谷光男氏はこの論文も参照しているのでこの説をとったと考えられる。しかし、天智天皇5年(666)に麟徳暦による乾封元年暦書がもたらされたときに銘文が記載されたとするなら、その時点ではその暦は唐の現行暦による暦という意味しかないし、暦法書でもないので「新暦」になることの発想は起きない。そもそも古代から元嘉暦をつかっているこの時代に改暦という発想があったかも疑問である。中国から暦を受けることは中国の冊封体制に入ることも意味する。なので,「閉の日」か「開の日」を「新暦」か「旧暦」で選択する状況になることはありえない。この666年の時点で選択するとなると、「唐暦」か「和暦」の選択である。したがってこの説であれば、書かれる文字は「旧」ではなく「和」となる。また和暦を使うのは当然であるので、この文字もわざわざ書く必要も無い。このようにこの説の根拠も無い。当然、天智天皇5年(666)に麟徳暦による乾封元年暦書がもたらされた根拠にもならない。

     さらに冒頭部分(p.287)に以下の記述がある。『この麟徳暦は、日本では儀鳳暦と呼称している。唐の儀鳳年間に麟徳暦の一部にに手を加えたのであろう。『日本国見在書目録』に「麟徳暦八、儀鳳三」とは、そのような意味である。遣唐使が舶載したとすれば、慶雲元年(704年)以後である。』 さらにp288には692年の褒賞記事をもとに『三韓から儀鳳暦を学んだことは事実である。』ともあり

    これらの記述を矛盾なく解釈するには、
     666年 「麟徳暦」による乾封元年(666)の「暦書」がもたらされた。
     692年までに三韓から儀鳳暦を学んだ。(儀鳳暦の伝来)。
     707年(慶雲元年)以後、唐から麟徳暦の「暦法書」が伝来。
    となる。

     こう考えると、冒頭に記述されている、『わが国に麟徳暦がもたらされたのは天智天皇5年(666)で、唐での施行の翌年のこと』とするのは、麟徳暦で計算された、ただの「暦(暦書)」だけのことになり、「麟徳暦の暦法」の伝来ではない。ただの「暦」の伝来に「**暦がもたらされた」とする表現は大きな誤解を与える。唐の現行の「暦書」の伝来は多くある話である。その根拠も「旧」と読めるか読めないかの一字の特殊な解釈もって麟徳暦の「暦書」の伝来の証拠としているところにも大きな問題がある。

     

     麟徳暦の伝来については、筆者は「中国古代星図の年代推定の研究」(数学史研究 228号(2017) p.1-21)注14で以下を書いている。
    『『麟徳暦』が日本で『儀鳳暦』と呼ばれるのは唐の儀鳳年間(676-679)に伝来したためというのが通説である。しかし、平安時代に作成された『日本国見在書目録』では『麟徳暦』と『儀鳳暦』が別の暦書として記載されており通説では説明できない。井上秀雄(「三国史記 1 新羅本紀 金富軾 (東洋文庫 372)」平凡社 (1980)p.247注73)では『新羅ではこれ(麟徳暦)に改良を加え、儀鳳年間(676-679)から使用したため、儀鳳暦という。』としている。筆者もこれに同意し、新羅では暦書の最初の行を以下に改定し『儀鳳暦』と名付けたと考える。
    新唐書暦志二『麟徳暦 麟徳元年甲子、距上元積二十六萬九千八百八十算』(彙編7,p.2141)
    儀鳳暦書(筆者推定)『儀鳳暦 儀鳳元年丙子、距上元積二十六萬九千八百九十二算』
    (起算年を12年繰り下げたため、起算年から暦元までの積年に12を加えた)』

     ではなぜ新羅は儀鳳年間(676-679)に麟徳暦を儀鳳暦に付焼刃的修正をしたのか?
     これは年表で676年を見るとすぐに答えがでる。この年新羅は朝鮮半島にいた唐軍を破り三韓統一を果たしている。これは朝鮮史において古代より続いた三国時代が終わる大事件である。これを記念して暦法の冒頭数行のみ修正された暦が儀鳳暦であり、それが新羅使により、元嘉暦との並用を始めた690年までに日本にもたらされたと考えるのが自然である。逆にこの修正を唐で行う理由は無い。日本にとっても冊封に関係しない暦は好都合である。「麟徳暦」の暦書は後に伝来したが、その時代には史書に記録する価値はもはやなかったので史書には現れない。また「麟徳暦」と「儀鳳暦」の暦の定数は全く同じなので、年ごとの「暦書」でみると違うところはない。また新羅は冊封関係により唐の年号を使用しているので、唐から新羅の暦を見ると「麟徳暦」を使っているように見える。同様の事例は李氏朝鮮時代にも見える。

    注1:日本で施行された暦法で「丙寅年四月大○八日癸卯開」となるのは元嘉暦での天智天皇5年(666)のみである。この60年前は(推古天皇 14年)丙寅年四月小○八日壬辰閉記(606/ 5/20)となり銘文と合わないので606年説は暦法上は誤り。

    注2:「旧」説では、「元嘉暦」と「儀鳳暦」が併用とされる時代には、現代の「太陽暦」と「太陰太陽暦」と同様に併用して用いられていたと考えているようである。しかし、暦に「元嘉暦」と「儀鳳暦」を併記して用いることは考えられない。例えば併記した場合、同じ日が月末の30日であったり、月初の1日だったりするので、実際には現代人が考えるこのような併用はできない。また片方をメインにしたとしても、上記のように現代の六曜である12直の「開」と「閉」の配置が違ってくる。同じ日に「大安」と「仏滅」同時に記載されるようなことになる。したがって、現代の「太陽暦」と「太陰太陽暦」と同様の併用はできない。暦日はひとつの暦法できまり、それを識別する必要性も生まれない。たとえ、「儀鳳暦」の時代に「元嘉暦」の時代を振り返ったとしても、暦法を記す必要性はまったくない。この文字が「旧」であれば、全く書く必要のない文字であるので、逆に「旧」ではないことになる。

    「野中寺の弥勒菩薩像」論争の参考となるHP
    【第4話】  野中寺・弥勒半跏像発見物語とその後
    【第4話】  野中寺・弥勒半跏像発見物語とその後〈その2ー2〉

    2020年1月4日今井湊『天官書』(飛鳥時代の暦法)関連を追記修正
    2020年1月3日修正追記
    2020年1月2日UP