「符天暦による七曜暦の造暦について」の発表



 現在唯一残る室町後期・明応年間(1492~1501)の七曜暦が符天暦で造暦されていることを発見し,2020年11月発行の日本数学史学会の会誌「数学史研究」(237号)にて論説を発表しました。以下はその概要です。

【題名】 符天暦による七曜暦の造暦について
【掲載誌】「数学史研究」237号(2020年8月~11月号)
【概要】
 七曜暦は太陽,月と5大惑星の日々の位置を記載した天体暦であり,古代から中世の日本では天皇のみに奉進された。作成数が限られていたため今日では室町後期・明応年間(1492~1501)の七曜暦のみが現存している。愛知県西尾市岩瀬文庫に明応3年(1月1日~5月10日),明応6年(全),明応9年(1月1日~7月15日)の書写本があり,また京都市毘沙門堂に岩瀬文庫の書写本に接続する明応3年(5月11日~12月30日)七曜暦の原本が現存している。

 これらの七曜暦を解析したところ,すでに発見されている『符天暦日躔差立成』と対となる「太陰躔差立成」の数値が現れたことなどにより,七曜暦は僧日延が天徳元年(957)に請来した『新修符天暦並びに立成』で造暦されていたことが確実となった。月の解析結果の概要は『符天暦による造暦された七曜暦の月の解析結果』を参照。10世紀後半からの符天暦による七曜暦の造暦も一条兼良(1402-1481)や宿曜師の造暦に関わる記録等で裏付けられる。符天暦の施行期間は宣明暦には及ばないが,『日本書紀通証』(二十七 推古10年,国文学研究資料館画像)の引用に残る室町時代の一条兼良の言によれば天徳2年(958)に採用されたとするので,1500年代に七曜暦が途絶えるまでの約600年弱と考えられる。

 月の位置から逆算すると「太陰躔差立成」の式は以下。『符天暦日躔差立成』と同様に相減相乗法が使われている。
  月の変動分・躔差(度) = m ×(124 - m) / 700 : mは限数(符天暦は1日9限)

【注目点のまとめ】
 従来,符天暦は官暦には採用されなかったとされてきたが,実際には請来直後の天徳年間(957~961)に官暦に採用され,その後16世紀に途絶えるまで,七曜暦は符天暦で造暦されていたことが明らかになった。また,暦道と宿曜道の対立は宣明暦と符天暦の対立とも見られていたが,暦道賀茂氏は請来した符天暦によりその地位を確立し,七曜暦も宿曜師の支援を受けた一時期を除き,賀茂氏が符天暦で造暦していたことが明らかになった。

 

【追加情報】(論文には記載無し。)
賀茂在方( -1444)『暦林問答集』の冒頭には以下の記述がある。

『是において世々の暦経来朝すと雌も,能く得る者莫し。貞観の初め,大春日真野麿,また天徳の末,吾が祖司暦博士賀茂保憲.博く考へ大成して献ずる所の暦,天数は違はず,伝はる所は規模ならざること莫し。』((日本には(中国から)各時代の暦がもたらされたが,しっかりと会得した者はなかった。貞観年間(859-876)の初めの大春日真野麻呂や,天徳年間(957-960)の末の我が祖であり暦博士であった賀茂保憲が,広く考証して大成し,献上した暦は,天の数を違えることなく,伝わることは模範にならないものはない。)
【訳を含め,馬場真理子『暦の「正理」』p.107-108(東京大学宗教学年報 34 (2016))から引用】

 この記録もこれまでは注意を払われなていないが,賀茂保憲の建議により請来した符天暦により七曜暦が造暦されていたことが分かった現時点では,大春日真野麿が貞観の初めにまとめた暦(法書)は「具注暦のための宣明暦書」で,天徳の末に賀茂呆憲がまとめた暦(法書)は「七曜暦のための符天暦書」となる。また,この記録も符天暦を用いた七曜暦の造暦が,賀茂保憲により天徳年間(天徳5年2月16日[961年3月5日]に応和に改元)から始まっていたことを裏付けるものである。安倍晴明をはじめとする平安以降の陰陽師は符天暦により造暦された七曜暦と『格子月進図』を用いて天変を観測していたことになる。
 


2020/12/26 月の解析ページの追記
2020/11/28 掲載

Copyright(C) 2020 Shinobu Takesako
All rights reserved